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No.21 ポーランド歴史: 最後のピャスト朝のカジミェシュ3世[大王]

ポスト21ポーランド歴史: 最後のピャスト朝のカジミェシュ3世[大王]

今回はポーランドの歴史の話を続けましょう!今日のポストはポーランドの歴史上の最も優れた人物の一人、最後のピャスト朝のカジミェシュ3世についてです。

カジミェシュ3世は父親のヴワディスワフ1世が1333年に死去したことにより王位を継ぎました。ヴワディスワフ1世のおかげで分裂状態から統一できたポーランドは安定していましたが、外圧を受けるようになりました。これに対して、カジミェシュ3世は外交による解決で臨みました。1335年と1339年ヴィシェグラードで行った2回の会談によってハンガリー国王と後継問題を元に親しい同盟関係を結び、カジミェシュ3世に男子がなければ、後継者はハンガリー国王のラヨシュ1世になるということを決めました。1343年にドイツ騎士団と交渉した結果、クヤーヴィとドブジンを獲得する一方、グダンスクのポモージェを分割譲渡することで和解しました。また、戦争を抜けるためボヘミア公と長い間交渉した結果、1348年にシレジア地方を帰属して和睦しました。カジミェシュ3世はポーランド王国の領土を倍増させることができました。まずは、マゾヴシェ地方を取って、1341年から数年かけて東の方へ侵攻し、ルブフ市があるハールィチ公国とヴォルィーニ地方を併合して、ポーランドの国際的地位を高めました。

カジミェシュの治世中、外の国力を背景に内政においても様々な分野でポーランドが大成功しました。王様は司法制度を整備すると共に、近代的な官僚制の構築を目指して、各地方に長官を就任させました。都市と新居住地を建設させ、全国の様々な所で新しいお城を整備して国境を固めました。そのためカジミェシュ3世のことは「木造のポーランドに現れて、煉瓦のポーランドを残して去った」とよく歴史教科書などに書いてあります。カジミェシュ3世がユダヤ人などの移民を保護し、ポーランドの商業的にも大きく発展に導いたと考えられます。首都のクラクフには商売を営む商工業者が集まり、東と西の通商路を結んだ中世ヨーロッパの中で大事な街になりました。農業生産も回復させ、通商を盛んにすることによって国力を高めました。文化的な発展も大事にして1364年にはクラクフに国内初の大学を設立しました。

カジミェシュ3世は1370年にこの世を去りました。4回結婚したことがありましたが、子どもできませんでした。ですので、ヴィシェグラード会談で定められた通りにハンガリー国王ラヨシュ1世が王の後継者になり、ピャスト朝はそれで幕を閉じました。

最後に最も大事な出来事を復習しましょう:
‐1333年‐カジミェシュ3世の治世の初め
‐1335年と1339年‐ヴィシェグラード会談
‐1343年‐ドイツ騎士団と和睦
‐1348年‐ボヘミア公と和睦
‐1364年‐クラクフ大学の設立
‐1370年‐カジミェシュ3世の死去

また今度ポーランドの歴史の話を続けましょう!
それではまた!
ハンナ
カジミェシュ3世の画像1
カジミェシュ3世の画像2

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