ポーランドの歴史:初代ピャスト朝‐継承の問題
印刷用ページを表示する 掲載日:2020年10月7日更新
No.16.ポーランドの歴史:初代ピャスト朝‐継承の問題。
今回は「No,12 ポーランドの歴史: 初代ピャスト朝の国王」の続きをお話したいと思います。前回は初代ピャスト朝の王様を紹介して、1025年に話が終わりました。1025年は大事な節目になり、ボレスアフ1世が最初の国王として王冠を受け取ることができましたが、すでに体調が悪く戴冠式の半年後で死去し、継承の問題が起こりました。
ボレスアフ1世には3人の息子がいました。長男ベスプリムのお母さんは氏名不詳のマジャール人の王女で、ミェシュコとオットは異母弟で彼らのお母さんはスラヴ人の王妃エムニルダという人でした。昔のスラヴ人の伝統として家長たる父親は資産を息子たちに分け与えるのですが、ボレスアフ1世は国を分割せずに、王位をミェシュコに1025年ミェシュコ2世ラムベルトとして即位させました。べスプリムとオットの二人はポーランドから追放され、べスプリムはキエフ大公国へ、オットはドイツへ亡命しました。その後領土を拡大し国を強化しようとしていたミェシュコ2世は、ドイツのサクソン地域へ侵入しますがうまくいかず、政治力が弱まっていきました。国を追われた二人の兄弟はそれを利用して隣の国で支援を受けて、ポーランドへ侵攻しました。ミェシュコ2世はボヘミアへ逃れ、ベスプリムは親政を開始しましたが、支配はごく短期間で終わり、1033年に殺害されました。それからポーランドはミェシュコとオットに分割になりそうだったのですが、オットが1033年に死亡し、ミェシュコ2世は再び国を統一できましたが、1034年に暗殺されました。
長年続いていた継承問題と不成功に終わった侵入がポーランドの国力を弱めていきました。
国を立て直すという大変な責務はミェシュコ2世の息子のカジミエシュ1世が担うことになりましたが治世の初め、様々な問題に直面していきます。国内は貴族の反乱と異教支配が起き、おまけにそういう混乱のうちにボヘミア公の軍事がポーランド南部へ侵攻し、国を荒廃させ当時の首都グニエズノがあるヴィエルコポルスカ地方まで進んできたのです。カジミエシュ1世は一時的にハンガリー王国へ逃亡しましたが、1039年に軍を連れて勝利を収め、ポーランドに戻りました。以前隣の国へ失ったマゾフシェ、シレジア、ポメラニア地方などの再統合を行い、首都をグニエズノからクラクフへ移動しました。混乱した時代の後で大事な改善を起こして、国全体を統治することができたので復興公と呼ばれています。
今日はここで終わります。
最後に重要な出来事を覚えてみましょう!
1025年: ボレスアフ1世の死去とミェシュコ二世の戴冠式
1031年 ‐1033年: 継承の問題。
1033年:ミェシュコ2世の再び治世
1034年:ミェシュコ2世の死去
1039年‐1058年:カジミエシュ1世の治世
それでは、また!
ハンナ
今回は「No,12 ポーランドの歴史: 初代ピャスト朝の国王」の続きをお話したいと思います。前回は初代ピャスト朝の王様を紹介して、1025年に話が終わりました。1025年は大事な節目になり、ボレスアフ1世が最初の国王として王冠を受け取ることができましたが、すでに体調が悪く戴冠式の半年後で死去し、継承の問題が起こりました。
ボレスアフ1世には3人の息子がいました。長男ベスプリムのお母さんは氏名不詳のマジャール人の王女で、ミェシュコとオットは異母弟で彼らのお母さんはスラヴ人の王妃エムニルダという人でした。昔のスラヴ人の伝統として家長たる父親は資産を息子たちに分け与えるのですが、ボレスアフ1世は国を分割せずに、王位をミェシュコに1025年ミェシュコ2世ラムベルトとして即位させました。べスプリムとオットの二人はポーランドから追放され、べスプリムはキエフ大公国へ、オットはドイツへ亡命しました。その後領土を拡大し国を強化しようとしていたミェシュコ2世は、ドイツのサクソン地域へ侵入しますがうまくいかず、政治力が弱まっていきました。国を追われた二人の兄弟はそれを利用して隣の国で支援を受けて、ポーランドへ侵攻しました。ミェシュコ2世はボヘミアへ逃れ、ベスプリムは親政を開始しましたが、支配はごく短期間で終わり、1033年に殺害されました。それからポーランドはミェシュコとオットに分割になりそうだったのですが、オットが1033年に死亡し、ミェシュコ2世は再び国を統一できましたが、1034年に暗殺されました。
長年続いていた継承問題と不成功に終わった侵入がポーランドの国力を弱めていきました。
国を立て直すという大変な責務はミェシュコ2世の息子のカジミエシュ1世が担うことになりましたが治世の初め、様々な問題に直面していきます。国内は貴族の反乱と異教支配が起き、おまけにそういう混乱のうちにボヘミア公の軍事がポーランド南部へ侵攻し、国を荒廃させ当時の首都グニエズノがあるヴィエルコポルスカ地方まで進んできたのです。カジミエシュ1世は一時的にハンガリー王国へ逃亡しましたが、1039年に軍を連れて勝利を収め、ポーランドに戻りました。以前隣の国へ失ったマゾフシェ、シレジア、ポメラニア地方などの再統合を行い、首都をグニエズノからクラクフへ移動しました。混乱した時代の後で大事な改善を起こして、国全体を統治することができたので復興公と呼ばれています。
今日はここで終わります。
最後に重要な出来事を覚えてみましょう!
1025年: ボレスアフ1世の死去とミェシュコ二世の戴冠式
1031年 ‐1033年: 継承の問題。
1033年:ミェシュコ2世の再び治世
1034年:ミェシュコ2世の死去
1039年‐1058年:カジミエシュ1世の治世
それでは、また!
ハンナ
