No,12 ポーランドの歴史: 初代ピャスト朝の国王
印刷用ページを表示する 掲載日:2020年6月8日更新
ポーランドの歴史: 初代ピャスト朝の国王
前回の「No9 なぜポーランドはポーランド」というポストで少しポーランドの国家の成り立ちについて書きました。今日はその話を続けてポーランドの初代の国王のことを説明したいと思います。
9世紀後半にポーランドを建国してピャスト朝を立上げたのはスラブ系のポラン族の5代目の族長ミェシュコという人物でした。彼は様々な近隣の民族を統合させ、966年に自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公としてポーランドの支配者になりました。『ポーランドの洗礼』によってポーランドは西欧キリスト教世界に認知され、ラテン文化圏の中に位置になりました。政治基盤を強化するため彼は隣のチェック公国(当時ボヘミアという国)の公女ドゥブラフカを妃として迎えることでチェコのプシェミスル朝と同盟を結びました。又、国境を保証することを根拠としてバルト海に向かうポモジェ地方を支配していた皇帝の辺境伯(現在ドイツの東北)と戦うことになりました。972年にはツェディニャの戦いで、辺境伯オード1世に勝利しました。ミェシュコ1世は優れた政治能力の人物で、ポーランドの最初の支配者でしたが、正式的に冠を受けられませんでした。ミェシュコ1世は992年に死去した後で彼の息子ボレスアフ1世が公位を引継ぎました。
ボレスアフ1世は軍人として非常に優れていて、『勇敢なボレスアフ』の名で歴史に残っていますが、剛腕政治家としても知られていました。治世を強化するため当時ヨーロッパで最も強力な統治者の神聖ローマ皇帝オットー3世に王として認められました。オットー3世は1000年に当時の首都グニェズノを訪問し、そこでポーランドの最初の大司教座(キリスト教会で最も大事な聖職)を置くことにし、これによりポーランドは教会の面で正式に独立を果たします。これはポーランドの歴史上重要な出来事の一つで『グニェズノ会議』といいます。オットー3世の後継者ハインリヒ2世は、ボレスアフ1世を敵にして両国が1002年~1018年の長い間戦闘状態にありました。結局ボレスワフは皇帝ハインリヒ2世と同盟を組みましたが、その結果としてポーランドは西のラウジッツ地方とミルスコ地方(国境の南中の部分)を得ましたが、西ポモジェ地方を喪失しました。『勇敢王』ボレスアフ1世は東隣のルーシを攻撃し、1018年には一時キエフまで攻めのぼって、国境を現在のウクライナまで拡げました。ポーランド公国を大いに発展させたボレスアフ1世は1025年に王冠を受け取ることが出来ました。初代の王になったからポーランド公国は王国に昇格しました。しかし、正式な戴冠式の半年後でボレスワフ1世が死去しました。彼は3人の息子:べスプリム、ミェシュコとオットがいて、その異母兄弟の中から誰がボレスアフ1世を国王として引き継いだかについて別のポストでお話ししたいと思います。
最後に重要な出来事を覚えてみましょう!
- 966年:ポーランドの洗礼、ミェシュコ1世によるポーランドの建国
- 972年:ツェヂニャ争い
- 992年:ミェシュコ1世の死去
- 1000年:グニェズノ会議
- 1002‐1018::神聖ローマ皇帝のマイセン辺境伯との戦争時代
- 1018年: ルーシの攻撃
- 1025年:ボレスアフ1世の戴冠式と死去
それでは、また!
ハンナ
前回の「No9 なぜポーランドはポーランド」というポストで少しポーランドの国家の成り立ちについて書きました。今日はその話を続けてポーランドの初代の国王のことを説明したいと思います。
9世紀後半にポーランドを建国してピャスト朝を立上げたのはスラブ系のポラン族の5代目の族長ミェシュコという人物でした。彼は様々な近隣の民族を統合させ、966年に自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公としてポーランドの支配者になりました。『ポーランドの洗礼』によってポーランドは西欧キリスト教世界に認知され、ラテン文化圏の中に位置になりました。政治基盤を強化するため彼は隣のチェック公国(当時ボヘミアという国)の公女ドゥブラフカを妃として迎えることでチェコのプシェミスル朝と同盟を結びました。又、国境を保証することを根拠としてバルト海に向かうポモジェ地方を支配していた皇帝の辺境伯(現在ドイツの東北)と戦うことになりました。972年にはツェディニャの戦いで、辺境伯オード1世に勝利しました。ミェシュコ1世は優れた政治能力の人物で、ポーランドの最初の支配者でしたが、正式的に冠を受けられませんでした。ミェシュコ1世は992年に死去した後で彼の息子ボレスアフ1世が公位を引継ぎました。
ボレスアフ1世は軍人として非常に優れていて、『勇敢なボレスアフ』の名で歴史に残っていますが、剛腕政治家としても知られていました。治世を強化するため当時ヨーロッパで最も強力な統治者の神聖ローマ皇帝オットー3世に王として認められました。オットー3世は1000年に当時の首都グニェズノを訪問し、そこでポーランドの最初の大司教座(キリスト教会で最も大事な聖職)を置くことにし、これによりポーランドは教会の面で正式に独立を果たします。これはポーランドの歴史上重要な出来事の一つで『グニェズノ会議』といいます。オットー3世の後継者ハインリヒ2世は、ボレスアフ1世を敵にして両国が1002年~1018年の長い間戦闘状態にありました。結局ボレスワフは皇帝ハインリヒ2世と同盟を組みましたが、その結果としてポーランドは西のラウジッツ地方とミルスコ地方(国境の南中の部分)を得ましたが、西ポモジェ地方を喪失しました。『勇敢王』ボレスアフ1世は東隣のルーシを攻撃し、1018年には一時キエフまで攻めのぼって、国境を現在のウクライナまで拡げました。ポーランド公国を大いに発展させたボレスアフ1世は1025年に王冠を受け取ることが出来ました。初代の王になったからポーランド公国は王国に昇格しました。しかし、正式な戴冠式の半年後でボレスワフ1世が死去しました。彼は3人の息子:べスプリム、ミェシュコとオットがいて、その異母兄弟の中から誰がボレスアフ1世を国王として引き継いだかについて別のポストでお話ししたいと思います。
最後に重要な出来事を覚えてみましょう!
- 966年:ポーランドの洗礼、ミェシュコ1世によるポーランドの建国
- 972年:ツェヂニャ争い
- 992年:ミェシュコ1世の死去
- 1000年:グニェズノ会議
- 1002‐1018::神聖ローマ皇帝のマイセン辺境伯との戦争時代
- 1018年: ルーシの攻撃
- 1025年:ボレスアフ1世の戴冠式と死去
それでは、また!
ハンナ

