初めてのクロスカントリー大会
国内初のクロスカントリー大会は明治45年4月大阪で山野横断競争と名づけられ行われたと言われる。
蔵王高原坊平の大会は、昭和11年ベルリンオリンピック大会で大活躍し、当時毎日新聞大阪本社運動部に所属していた村社講平氏によって陽の目を見ることとなる。
高原に蓄積された層土の弾力性に目を付けられ、高所ででもあり土質はスウェーデンのボロダーレンに良く似た良地で練習の絶好の地であると評され、同氏設計の当時1週1キロのコースで、昭和32年9月29日東北で始めてのクロスカントリー大会が開催された。
初めてのクロスカントリー大会が行われた翌年の昭和33年9月1日、快晴のなか、女子6名を含む80名の選手が参加し、第1回東北クロスカントリー大会が8種目に分けて蔵王高原坊平で開催された。
多くのアスリートが蔵王高原坊平を訪れ、縦横無尽に走る姿が見受けられるようになるが、その後大会開催はされなかった。
昭和48年11月、クロスカントリー大会再開するための現地踏査のため村社講平氏が来市。火山灰質で弾力性に富んでおり、運動選手の基本である足腰を鍛えるには絶好の土質であり、これほどの好条件に恵まれた場所は全国でも珍しいと、クロスカントリー大会の再開とコース設定を提案された。それがきっかけとなり、昭和50年国設蔵王坊平スキー場のゲレンデを利用した1週2キロのコースが新設され、既設のコースと接続し1週3キロのクロスカントリーコースが完成。
昭和50年8月10日、第1回蔵王坊平クロスカントリー大会が始まる。
第10回大会では、村社講平氏の功績を称え、クロスカントリーコース脇に記念碑が交流され、ご夫妻出席のもと除幕式が行われた。
以後、第18回大会は台風のため中止となるが、毎年多くの県内外からのランナーが蔵王坊平を体感し、健脚を競っている。
資料:上山陸協史「あゆみ続けた半世紀」ほか
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| 昭和32年開催掲載の新聞記事 |
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昭和59年8月5日村社講平碑と村社講平夫妻
【副碑文】
村社講平氏はベルリンオリンピック(1936年)五千米・一万米の両種目に入賞。昭和三十三年第一回蔵王横断マラソンの指導にあたられた際、ここ蔵王坊平は火山灰の堆積により弾力性に富む自然豊かな芝生地であり、スポーツトレーニングの好適地として氏に絶賛される。以後二十数年にわたり当地を訪れクロスカントリーコースの設定、蔵王エコーラインロードレースなど山岳競技と陸上競技選手の指導にあたられる。東京オリンピック(1964年)マラソン日本代表選手もしばしばこの地で合宿を行う。 |
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大会の飛躍
平成2年以降、(財)日本陸上競技連盟や多くのアスリートから、蔵王坊平が更に注目が集まるようになる。
山形県と上山市が一体となり、多くの学識経験者からご指導をいただきながら蔵王坊平の資源評価と整備についてとりまとめた「アスリートヴィレッジ整備構想」のもと、東日本初となる芝やウッドチップの本格的な常設クロスカントリーコースや全天候型の陸上競技場などを整備し、平成9年には、アジアジュニア国際クロスカントリー蔵王坊平大会が29の国と地域が参加して第22回大会と同時に開催された。
その後、国際大会は、隔年で3回開催され、国内外に大会と蔵王坊平を広くアピールした。
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| 平成9年アジアジュニア国際クロスカントリー蔵王坊平大会 |
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ジュニアクロスカントリー駅伝
アジアジュニア国際クロスカントリー大会開催の翌年、第1回山形県市町村対抗ジュニアクロスカントリー駅伝競走大会が開催された。
この大会は、広域圏内の仲間との交流を通じ、地域や仲間との繋がりや関わりを育む社会教育事業として、陸上競技に限らず様々なスポーツに携わっている子どもたちに駅伝競技を体験させることにより、より一層の地域、スポーツの振興を図ることを目的にはじめられた。
小学生から中学生が一緒に練習や合宿を重ね、チーム一体となって目標に取り組み、交流が図られている。
また、競技力の底上げにもなっており、この大会を経験した子どもたちが、大学や実業団でも活躍するようになり、県内の競技力向上の一躍も担うようになってきた。
第3回より山形県ジュニア駅伝競走大会と大会名が変わり、平成18年の第9回山形県ジュニア駅伝競走大会からは、県内のみならず、全国からの参加を呼びかけ全国ジュニア駅伝競走大会も開催されるようになった。
今後さらなる広がりを期待するとともに、全国からの挑戦チームを求む。
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| 中学生から小学生へのタスキリレー |
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| 悪天候のなか勝ち取った笑顔 |
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