ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

横川堰ものがたり

横川堰開削の歴史

 横川堰地図

  横川堰は、宮城県刈田郡七ヶ宿町において1級河川阿武隈川水系横川から取水し、途中国有林及び宮城県有林を通過し、県境を越えた後に1級河川最上川水系須川支流萱平川に放流される、延長約3キロmの山腹水路である。
 堰の開発の歴史は古く、「寛政6年に菖蒲村(現上山市)の利八というものが、大平(現在の上山市菖蒲から古屋敷に至る県道沿い)の開田を思い立ち、お上に願い米沢領預り所、竹の森にいる兵藏というものを雇い、横川から一枚石、久保倉山を通して水通しを行い、米等の援助を受けた」といわれ、これが横川堰開発の最初と記録されている。
 その後も下流域の開田の願い出と共に、新しい堰の開発が目論まれ、その歴史については、下記のように記録されている。

右上が横川堰、左下が潅漑農地

文政4年中生居の庄屋奈良崎助左エ門が現地調査を行う。
文政5年楢下村の斎藤七右エ門と奈良崎助左エ門が、楢下村と牧野原の開墾を目的として新堰を開発する。
文政11年開発の願書が出され、これは二ツ森の古水として記録されている。
天保2年楢下村の斎藤七右エ門他2名の連名で、牧野原、楢下原の開田の願書が出され、同年10月にも同じ願書が出される。
天保4年天保年間において数回にわたり開田の願書が出される。
慶応2年横川堰開発の願書が出され、慶応4年(明治元年)に権利を得る。
明治2年楢下村の和七、中生居の助左エ門の世話方により、近郷30ケ村より人足が出て、新堰を掘るも落水ならず。
明治4年権大屋佐久間精嶽が横川堰を見聞。
明治12年上山士族並びに11ケ村連名にて、「牧野原見ル目原開墾組合」を組織。
明治12年山形県令三島通庸、宮城県令松平正直氏が楢下村大場小次郎宅において、会合をもち1泊。横川用水のことを快諾する。
明治13年現在のルートにより新堰の開削に着手、開墾組合は政府に年賦借金の請願を行う。
明治14年開削完了し通水の成功をみる。また、明治天皇迎幸の折開墾組合ではブドウ沢区間を墜道にせんと建白書を奉る。
明治15年牧野村、楢下村、原口村、小笹村、須田板村の5村で分水契約を締結する。「牧野原見ル目原開墾組合」は明治40年過ぎまで存続したと伝えられている。

改修工事の実施と管理

 このような苦難をのりこえ通水を見たわけであるが、約3キロメートルの山腹水路は屈曲が多く、勾配がない区間が存在、谷側への漏水が発生しているなど、「農民の通水意とならず」、受益者の憂慮するところであった。
 この現状を解消し、用水の確保と円滑な通水を図るべく、改修事業計画がもち上がり、第1次改修工事を昭和33年から昭和38年まで上山市営事業として、第2次改修工事を昭和50年から昭和53年まで山形県営事業として実施し、屈曲区間に墜道を設置して水路延長を短縮したほか、コンクリート水路により漏水防止を図り、現在の横川堰の態様を整えるに至っている。
 横川堰の施設管理は、昭和42年に上山市の管理から下流域の実質水利使用者である横川堰土地改良区に管理委譲し、昭和62年の改良区の吸収合併により上山西部土地改良区に、また、平成7年の上山東部土地改良区との合併により、現在は上山市土地改良区が取水時期における管理者としている。
 ただ、水路敷地等は、宮城県及び東北森林管理局から上山市が借り受け、併せて横川堰までの管理用道路も国有林内を市道として整備管理しており、適正な水利使用となるよう市が管理責任者としているものである。

水利権

 昭和39年2月25日宮城県告示第92・95号をもって、取水河川が準用河川の認定を受けたことに伴い、許可水利権への移行命令が同日に出され、同年5月20日に申請を行い、同年11月10日宮城県指令第13420号をもって許可され、その後更新を行っている。

横川堰新緑の横川堰

 


ページトップへ